医師を目指した動機について

いや〜言ってるそばから三日坊主になりましたね。

まあ前の記事がちょっと読み応えあったので、そこはお許しいただいて……

受験勉強をする中でも毎日続けるのってほんと大変で(先日言いましたね)、ただある程度知識がついてきて習熟してくると、3日に1日は休んでましたね。特に入試日の合間合間などは、私の場合結構空いたりしたので、忘却曲線に従いながら記憶を維持する程度にしていました。まあ、英文は毎日サーッと読んでいましたが。読めると楽しくなってくるものです。

 

さて今日は私が医師を目指した理由についての話をしましょう。気になっている人も多いかと思いますが、ご期待に添えるほどのものかは……

簡単に私の生い立ちから始めますね。

結論から話すのがプレゼンの王道ですが、まあブログなので、ゆるく時間があるときにお読みください(今日はちょっと重めの話)。

 

私は医師の父と歯科医師の母の間に生まれました。私が生まれたとき既に両親ともに結構高齢で、一人っ子であったため特に父親からはかなり甘やかされて育てられました。

父は常に「医者にだけはなるな」「自分の好きな道を選べ」と言っていました。昨今問題にもなっている女性医師の風当たりが今よりもっと強かった時代の人でしたから、娘に辛い思いをさせたくなかったのでしょう。そもそも医師は男性にとっても楽ではない職業ですので、自分がしてきた苦労を負わせたくない気持ちもあったのだと思います。

一方母は自立心の強い人で、娘にも手に職をつけて働いてもらいたいと思っており、医者という職には割と賛成だったようです。ようです、というのは母が父に遠慮してあまり強く言わなかったので、幼い私にはよく彼女の心境がわかっていなかったためです。

そして私は父の強い言葉と、小学校当時からの算数の不出来から、単純に理系が嫌で文系に進みました。国語や社会は好きでしたし、親の言いつけも守れるし一石二鳥でした。こうして大学4年間過ごすまで文系を貫きました。数学は今でも苦手です。

 

大学4年の5月末、就活が名目上始まる直前という時期に父が亡くなりました。父は私が中学の頃から約10年、肝臓がんを患っていました。習慣的な飲酒による肝硬変が原因と思われます。

あちこち転移していたので切除は無理で、抗がん剤放射線治療を行っていました。だんだん標準治療が効かなくなってくるといわゆる民間療法に手を出し始めました。高濃度ビタミンC点滴とか、よくわからない漢方とか、そんなんです。これがまたバカ高いしエビデンスもないので、私も止めたわけですが強行されました。点滴の方はなんか気分が良くなったらしいのでまだいいのですが、漢方のほうは効く前に亡くなったので分かりません。多分効かないです。

医者として尊敬していた父がそういうオカルティックなものに傾倒していくのをみるのはこちらもつらいものがありましたし、とはいえ本人の必死さを考えると全面否定もできずさらに暗い気持ちになります。

最後の2ヶ月くらいで急激に痩せこけていき、一日中寝ているような生活になり、入退院を繰り返していました。亡くなった当日ちょうど帰省する予定だったのですが、朝方亡くなった上に私は前夜のゼミ新歓明けで寝坊し、家から鬼のように連絡が入っていて泡を食って帰ったのを思い出します。

 

父が亡くなった直後就活にも身が入らないまま、大学4年の8月くらいに元職場にやっと内定をとりました。父の事業の書類などを見ていて元職場の仕事内容と繋がるところを感じたからです。仕事をしながら、心の隅で父の人生の終わりが彼にとって満足のいくものだったのか、また、自分がもし医師の立場で、父に何ができたら何をしただろうか、ということを考え続けていました。

思い出すに、父の闘病生活は傍から見て非常につらいものだったと思います。なにより好きなものを好きなだけ食べるということができません。制限だらけの食事、薬の副作用による食欲不振でそもそも食べるということがストレスだったようです。そういうイライラや治らない焦りから民間療法に頼っていったのも分からぬではないような気がします。

ただ私が医師として治療に責任を持てる立場なら、そういう不安までケアして最後まで一緒に治していきたかったなあ、そう思ってネットをぶらついていると腫瘍内科という科があることを知りました。これが医師という仕事が明確に目標になった瞬間でした。

腫瘍内科医は基本的に抗がん剤の投与によって患者のがんを治療する化学療法の専門家ですが、それだけでなく他科や他職種との連携、調整を総合的に行うがん治療そのものの専門医という認識です。ちょうどいまアライブという木曜ドラマでやっているそうですね。私がやりたいの、まさにこれじゃね?と思いました。

信頼される腫瘍内科医になって、民間療法に患者をからめとられることなく、患者を最期まで支えたい、患者や家族を出来るだけ苦しませずに、出来れば治し、出来ないなら最期まで安らかに、そういう気持ちが固まっていきました。サラリーマンとしての私よりよほど人の役に立てそうな気がしましたし、私もやる気になったわけです。

 

以上が医師を目指した理由です。

受験のときは「患者が民間療法に騙されないように〜」みたいなところをおしていきましたが本当は別にそこまで思っていません。民間療法は確かにお金も取られるし私も悔しいのですが(なーにが牛の睾丸をすり潰した粉末にウン十万じゃい)、本人が満足しているならそれはそれなりの価値がある、とも思っています。超絶コスパが悪いのでやはり最後の最後、標準治療で治らないところまで来てでしか手を出させたくないものですが。残る家族にも負担ですし。

身内の死とか病気のエピソードとかは文系の医学部受験だと(残念ながら)鉄板らしいです。ということは試験官は耳タコということでして、避けたほうがいいと言われています。ただ、もう私の場合これしかなく、私にとって大きな価値があったため、以上の話をコンパクトにまとめて面接で話せるようにしておきました。耳タコのネタであっても、やはり人間の死というのは聞くだけでも結構重いので、短くまとめるとそれなりに迫力があります。エクセルに質問と答えをまとめて、人に見せたり聞かせたりしてバージョンアップしていくとよいです。

 

ふうつかれた。

今日は死ネタありで申し訳なかったです。明日は富山の話でも書こうかな?